北極のペンギンたちについて

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アイドルの概念とアイドルの語るアイドル論が好き

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少年からの「卒業」 SixTONESから感じる健全さ

SixTONESが(恐らく)少クラから卒業するということで、大分前に「少年」と「卒業」についていろいろ考えたことに追記しつつブログにしてみました。明らかに違うだろみたいなところがありましたらご指摘ください…

 

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ジャニーズアイドルたちには「少年」性が求められているというのはある程度共通の認識である。(実際、「少年」を連想させる名前の作品やグループ名がたくさんある。今回SixTONESが卒業するのも“少年”倶楽部である。そのせいか、彼らはアラサーになっても周囲の人々のことを「オトナたち」と呼ぶ。)

「大人」とは日常や権力の象徴であり、それと対になる「少年」とは非日常(SHOW)の象徴である。社会に擦れる前の無垢な輝きを放つ、大人の庇護(あるいは支配)を受ける存在としての「少年」。

(七三分けを嫌っていたのは社会人を連想させるからかも)

 

本来であれば、少年の輝きは一時で、いつかは成長し社会に出て大人になっていってしまう。1人の人間として自立していくのと同時に、社会に揉まれるうちにすり減りいつしか少年特有の美しさは失われてしまう。他の大抵の美しいものたちと同様に、少年というのは儚さと常にセットである。少年からの卒業とでも言うべき普遍的な現象である。

 

アイドルという「プロの少年」を作り出し卒業という制度がない(卒業することはあっても最初から制度として設計され想定されているわけではない)グループに所属させている仕組みには、そうした少年からの卒業を避けてその夢を永遠にしようという意図もあったのではないか。

実際のところ完全には少年の成長を止めることはできないが、(皮肉なことに芸能界という大きなお金が動き、幼い頃からプロとして仕事をしている少年たちは、外の人々よりもずっと早く内面的に成長していく傾向すらある。)少年時代を共有した仲間との「グループ」という特殊な空間は、少年の残り香を定期的にアイドルたちに供給し部分的に少年性の継続を図る装置として一定の効果を有しているように思う。

 

しかしながら、グループに卒業という制度がないことの意味付けについて、その中に閉じ込められた当のアイドル自身は、上述とは異なる解釈をしているのではないかと感じられる時がある。具体的には「老いも含めたグループというストーリーが半永久的であるということを、ファンとの間で誓い、信じ信じさせる余地を残すためのもの」というものである。グループに卒業の仕組みがないことで、老いていくことも想定した上で、それでもこのグループはこの先も続いていくのだという(少なくともその瞬間においては嘘ではない)約束に実効性をもたせることができる。

SixTONESを見ていると、この意味で「ずっと」という言葉を使っている場合が多い気がする。一緒に老いていくことを想定して、歳を重ねたらもっと面白いことができる、と語る彼ら。長期的な視野でアイドルであり続けることを前提にしているからこその地に足のついた戦略。元々の意図するところではないかもしれないが、変わりゆくことも織り込んでいる分、私には後者の方がいくらか無理なく健全に感じられる。だからこの意味での解釈でアイドルをやってくれていそうだということが垣間見えると本当に安心するし、ありがたいと思っている。

 

(同時に少年性を維持する装置がグループの中にしかないことで彼らにとってのグループという存在が一際特別な意味を持つこと、それが“グループ愛”のひとつのかたちとして表出しそれに沸いてしまうオタクの1人であることへの罪悪感もあるけど…)

 

時代や老いも君と見たいな

(『オンガク』SAEKI youthK 2022より)

少年性をグループの空気感の中に残しつつも少しずつ「少年」を卒業していくであろうSixTONES共に時間を重ねて、これからの景色も一緒に見ることができたら幸せだと思う。