これは架空の沼落ちブログです。
ただ、100%嘘というわけでもありません。半分くらいは本当にあったことで、半分くらいは虚構です。どこまでが書き主のリアルかはご想像にお任せします。ひとつだけ断っておくと私は車の免許を持っていません。
何故か私のリアルな沼落ちブログよりも長い酔狂なブログに仕上がってしまいましたが、付き合ってくださる方がいらしたら幸いです。
(なお架空沼落ちブログの書き手は最終的にアメフラシというアカウント名で北斗担としてTwitterをやっている設定です)一応私(aliali)のリアルな沼落ちブログも貼っておきます。よろしければぜひ↓
ali-0416.hatenablog.com
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まさに青天の霹靂。
晴れとも曇りとも言い難い微妙な天気を体現したみたいな私の人生において、まさか「青天の霹靂」などという大仰な言葉を使う日が来るなんて思ってもみなかった。
2023年6月5日、CDTV。
私がSixTONESに出会った日。私の人生が少しだけ、しかし大きく変わった日。
あの時の衝撃と感動と喜びの熱量とを、ここに言葉にして残しておこうと思う。
運転 1
車の運転は得意な方だ。
厳しいことで有名な地元の自動車学校の教官からベタ褒めされたくらいには、自動車の運転に関して適性があるという自負がある。
黄色信号が見えたら緩やかに減速して、衝撃が走らないように停車する。急ブレーキも急アクセルも踏まない、縦揺れや横揺れの少ない、安全で、間違いのない運転。毎回毎回ドライブを終えるとYahoo!カーナビが誉めてくれるので気分が良い。
初めて母を助手席に乗せた時、ふたりきりの空間で母がポツリと溢した「あめちゃんの人生みたいな運転ね」という言葉は肯定的なニュアンスだったのか、はたまたそれ以外の意味を含んでいたのか。
誰よりも私をよく知っている母のあの言葉が鋭く私を形容していることを確信しているが故に、とてもじゃないが怖くて聞けなかった。
公道ですれ違うには安心安全な最高のドライバー、でもワクワクするようなドライブがしたい人にとってはあまり優秀なドライバーとは言えないかも。じゃあ私自身を乗せて人生を走るドライバーとしてはどうだろうか、なんて。
人生の選択を強烈に後悔している訳ではない。むしろ後悔しないように常に選択し続けた結果なのだからこれが最適なはず。
大丈夫、これで良い、間違ってない。
納得して進んでいるはずなのに、自分の人生を語る言葉がいつも言い訳じみた響きを孕んでしまうことに、何かを偽っているような感覚が拭えないことに、どこか虚しさを覚える。
私たちを一方的に評価してくるものが周りにいくらでも存在して、何も考えずにそれらに応えていた頃には感じずに済んでいた(あるいは見て見ぬふりができていた)不安が日に日に顕在化して私を蝕んでいく。
多分このじんわりシクシクとした痛みは、私のすべてを急に決定的に壊してしまうような力を持つものではない。だけどきっと少しずつ私を歪にして、テセウスの船みたいに私を作り替えて、いつか私を私でなくしてしまう。そんな予感に支配されていた。
彼らに出会ったのはそんな時だった。
号泣
沼落ちまであと4時間。
家に帰ってきて何となくテレビを付ける。特段見たいものがある訳ではなかったけど何となく音が欲しくて、それが一人暮らしを始めて以来の習慣になっていた。
軽快なステップに華やかな画面。
ご機嫌なバンド。
共鳴し合って増幅する音を楽しむ空気感。
視線が吸い寄せられる。
どうしてだろう、彼らがあまりに楽しそうだったからだろうか。
途中で様子が変わる。
いつもの癖で字幕を追う。
だいぶ切実で赤裸々な歌詞なのね、なんて思いながら。
気付いたら、いつの間にか目が離せなくなっていた。
目まぐるしく色が変わる画面。
黄色信号でずっと進行
辛抱した先は歩こうぜレッドカーペット
よりどりミドリってさっき言ったろ?
明日ありと思う心の仇桜
生きてることが青天の霹靂
そしてついに最後、“彼”が叫んだ。
しかし悔しさで黒く燃える腹ん中!!
燃やせ!燃やせ!燃やせ!
画面の向こう側の彼の声帯が鳴る。
上滑りしていた乱雑な思考の山をグチャっとかき分けて、彼の声が鮮烈に、強烈に、脳の中まで染み込んでくる。
彼は生きているんだ、と思った。
あんなに大きな声を、彼は今、腹から出している。
あの人は今、あそこで生きている
「いきている」と小さく言葉にしたら無意識のうちににボロボロ涙が溢れ出してきて、自分が泣いていることに気付いたら更に涙が止まらなくなって、それから声を上げてわんわん泣いた。
パフォーマンスに感激して泣いたんじゃない。彼がかっこよくて泣いたのでもない。
彼と比べて自分が惨めで、悔しくて、そんな自分が心から嫌だったから、自分のために泣いた。
彼が出した声より大きな声を出して泣かないと、もう私は私でいられなくなってしまうような気がした。声が枯れて、頭の中の冷静な私がこれ以上泣くと明日困ると考え始めても、また無理に声を上げ直して泣き続けた。今までの分全部、今ここで泣き切らないといけないような気がした。
あんなに泣いたのは、というか大きな声を出したのは、愛犬を亡くした日以来かれこれもう10年ぶりくらいだった。
こんなふうに声を上げて泣くことができる自分がいたことに驚いた。
泣きに泣いて、手近にあったボックスティッシュを1箱使い果たした頃、横隔膜がヒックヒックしはじめる。
剥がれたマスカラと涙が頬に張り付いて、噛み続けた鼻先がヒリヒリする。
そこまできてようやく徐々に落ち着き出して、不思議とスッキリした心境に至る。
少し痛む頭でぼんやりと「涙活って本当に効果があるんだな」などと考えていたのを覚えている。
人 アイドル
そしてふと思う。
あれ、そういえば私、一体何を見て泣いたんだっけ。
何に泣かされたのかすらよく分からずに小一時間泣き続けていたのである。1時間前くらいの朧げな記憶を頼りにTwitterの検索窓に打ち込む。
「真っ黒に燃える腹ん中 燃やせ」
後の自担、松村北斗との出会いである。
もっとも、ここまでこれだけ長々と書いておいて大変恐縮なのだが、ここでそのまま即沼落ちという訳にはいかなかった。
沼落ちまであと3時間。
ここから、Twitterで得た情報を頼りに『人人人』をYouTubeで検索してみる。
YouTubePLAYLIST『人人人』
www.youtube.com
そこにいたのは確かにアイドルで、しかし同時に人だった。
人がアイドルになる、その瞬間が最高のエンターテイメントとして彩られている。とびきり楽しそうに、とびきり魅力的に、“人”がアイドルを纏う瞬間を歌い上げている。
人、そうか、アイドルも人なのか。
彼らが見せているのは、膨大な“人”としての人生における、“アイドル”という仕事をしている限られた時間の中の、更にそのごくごく僅かな瞬間にすぎない。
確かに黄色信号でもアクセルはベタ踏みだけど、しかし「人」である以上むやみやたらに交通事故に遭うわけにはいかないのもまた事実であって、予めきちんと交通整理をして車を退かせてから爆走する。
「人だけど」というより「人だから」、私は彼らに惹かれた。
MVで、ストチューブで、ラジオで、彼らが見せる「人でありアイドルである」側面を心から愛おしいと思った。
石橋を業者に調べてもらってから昼間にガンダで渡る
彼らは必要以上に石橋を叩いている姿を見せない。
石橋強度の測定業者(?)を呼んで、見積もりを出して、日取りを決めて、提出された調査報告を読んで、実行を決めて判を押して、計画を立てて、見られ方のリハーサルをして、当日そこまで移動していた瞬間が確かにあるはずだけど、私たちはそれを知らない。
「地に足がめり込んでいること」は教えてくれても、地面の下の足を私たちに見せることはない。
どこまでを見せて、どこまでを見せないかの境界線を引くイニシアティブは、常に彼らの手の中にあるように見える。*1
その煌めきをもって私を号泣させた松村北斗というアイドルは、ステージに上がる前に大量のアクセサリーを付けて武装するらしい。「生身ではステージに立つメンタルではないから、大量のアクセサリーを見に纏うのだ」と。
ステージの裏側にいる“彼”はステージ上の彼とは別もので、しかしステージの裏側の彼と地続きな肉体を、人生を共有している存在である。私の知らないステージの裏側の彼がいるから、私が目撃したステージ上の彼も存在している。
中学時代にこんなエッセイを読んだことがある。*2
桜染は、桜の花びらによってではなくて、桜の皮によって染める。桜が咲く時期になると桜の木は全身で懸命に桜の色になる。
花びら一枚一枚が大きな幹を背負うように、ひとつひとつの言葉は背後にその人の世界全体を背負うのである。
*3
アイドルの提供してくれるエンタメにも、似たところがあるように思う。私たちが見ることができるのは色付いた花びらだけだとしても、それは確かにステージの裏側を背負っている。
あまりにステージ上の彼らが煌めいているから、その裏側に流れる時間ごと全部愛おしいと思った。嫉妬も劣等感もエネルギーにして奮起するそのあり方ごと、全部。
話したこともないし、会ったこともない。彼らの全てを知っているなんて間違っても思わないし、知りたいとも思わないし、知り得ない。
それでも、彼らを今愛おしく思う私のこの気持ちは、絶対に嘘じゃない。
風呂
――と、ここまで書けば流石に沼落ちしただろうと思われるだろうが(というかまあ落ちているといえば落ちているのだが)残念、沼落ちまではもう1ステップだけ必要だった。
なにせ彼らの輝きや愛おしさを感じれば感じるほど自分が惨めで悔しくて、そのせいでどうしても「好きだ」とは言いたくなかったから。
「好き」というのが私と相手の間に生まれるもので、「愛おしい」というのが私が他者に対して抱く一方的な評価であるとすれば、前者の意味での「好き」を確信した上でそれを間近で見続ける選択をするのはきっとあまりに酷でつらくてしんどくて、そんなことを続けていたらどうにかなってしまいそうだと思った。それだけはどうしても避けたかった。
その意味では、誤解を恐れずに言葉を選ぶとしたら、私の人生においてあの数時間だけ「知らない」でも「好き」でもない、強いて分類するなら「嫌い(たい)」に近い状態だったと言えるのかもしれない。
沼落ちまであと3分。
ここで私はまだお風呂に入っていなかったことを思い出す。
ぐちゃぐちゃな顔を洗ってさっぱりしたい。
シャワーを浴びようと栓をひねる。
私はそこでささやかな悲劇に見舞われた。昨晩風呂掃除をした時に水温をかなり下げたままにしてしまっていて、そのせいで頭から勢いよく冷水を浴びる羽目になったのである。
ヒャアアと中々に大きな声が出る。散々大泣きして声出しが済んでいたおかげか一際大きな声が出た。
冷たい。
身体がびっくりして一気に鳥肌が立つ。
その刹那、頭の中で火花が散るような、経験したことのない興奮がバチンと頭を駆け巡った。ここが令和の日本ではなく古代のシラクサだったら、そのまま風呂場を飛び出して叫んで回っているところだった。映画のワンシーンのような衝撃。
こいつは何当たり前なことを今更言っているのだと思われるだろうが(というか改めて今こうして言葉にしようとすると正直自分でも何を言っているんだという気がしてくるのだが)冷たさに飛び上がった私の身体を知覚して、それで“私も人だ”と思った。
それと全く同時に、つい先程手に入れたばかりの“人であるSixTONESが愛おしい”という感情がその瞬間ピャンと跳ねて、“人”概念そのものにまで飛び散った。
勢い余ってあらゆる“人”のことまで愛おしくなったのである。
人が好きだ、私は人だ、故に私は私が好きだ。
バカみたいな三段論法だけど、でもバカみたいに素敵だ。
なんてことだ、私の身体に流れる時間ごと愛おしい。
これなら「好き」という言葉をなんの衒いもなく使えると思った。嬉しかった。
“彼らがいるからこの世界も悪くないと思える”どころの騒ぎじゃない。彼らをきっかけに、この世界まるごと好きになってしまったのだ。
オセロ盤上では2つの石で挟まないとひっくり返せないけど、地球は丸いからSixTONESというひとつの石を真ん中に置いただけで、まるごとひっくり返してしまえるらしい。
大事件である。脳内の私が駅前で号外を配りまくっていて、同時に脳内の私が次々にその号外を受け取って眺めては一様に目玉が飛び出るくらい驚いている。
喜びと、感動と、感謝とが、花火みたいに次々に炸裂した。
ストーンズ スキ…
ヒト スキ…
セカイ スキ…
人里に下りてきた心優しい化け物みたいなことを、大真面目に思った。
遂に沼落ちである。
テレビの前でもスマホの前でもなく、まさかの頭から冷水を被った風呂場で。
CDTVを見てから3時間強、日付を跨いで6月6日。京本さん命名のすとーんずラブの日である。なんという奇跡。
自信
私の人生にはこれまでも、そして多分これからも、彼らのようにド派手でかっこいいステージに立つ瞬間は訪れない。それでも彼らと同様に私の身体にも流れる今日という日は、誰かを直接魅了して彩ることはなくとも、同じように流れている。
私も生きている。
今までの私は漠然とした“ナニカ”を仮定して、「にも関わらずそれが私の手元にない」満たされなさを誤魔化そうと必死だった。
だけど私にとって真に必要だったのは存在すら定かでないナニカなんかではなくて、「そこに既に存在しているものが愛おしくて、かつ好きだ」という気持ちだったんだと思う。そしてそこには、ずっと私が動かしてきた、何よりも私のそばにいた、「私」も含まれているべきだったのだ。
私は松村北斗が、SixTONESが、大好きだ。
そして同じようにして私自身のことも好きだ。
沼落ちの日について振り返ってみて、松村北斗というアイドルが特にその輪郭を「語る」ことに秀でているアイドルであったから、私はあんなにも衝撃を受けたのではないかと思っている。
背後に背負った人生を的確に「語る」。
「語る」という言葉を使ったが、ここでは言語的なものだけでなく非言語的なものも含めて想定している。*4
本来、その人がどういう人間なのかなどということは、その人自身にすらよく理解しきれないものである。むしろ「私はこういう人間です」などと端的な言葉で表現しきれてしまったとしたらその瞬間に積み重ねてきた膨大な時間が急に軽薄なものに成り下がってしまう気がするから、そんなことはできない方がいいとさえ思う。
しかしながら、私という人間を分析していくことで私という人間の骨組みをなんとなく掴むことはできる。細胞ひとつひとつはシミュレーションできずとも、私という体がどう動くのか把握することはできる。
ただここで問題になるのは、「骨そのものを語る」ということは時に無骨で、時に生々しいという点である。エンタテイメントの介在する余地に乏しいのでもれなく随分と深刻なトーンになってしまう。
それを避けながら「私」の話をする方法が「輪郭をトレースさせて、概ねどこにどんな風に骨があるのかを推認させる」というやり方だと考えている。輪郭の筆致にユーモアや煌めきを含み込ませながら語ることで、それらはエンタテイメントに昇華されていく余地を獲得する。
松村北斗というアイドルは、その骨を掴む徹底した自己分析と、「語り」の技術とにおいて、卓越したものを持っているように思う。
「輪郭を語る」とは、具体的には、長いフリートークでどんな風に自分が考えながらある物事を遂行したのかを語ることであり、ユーモアたっぷりにインスタライブのコメントを返すことであり、たくさんの指輪と共にステージでギラギラとパフォーマンスをすることである。そして、「しかし悔しさで黒く燃える腹の中」とシャウトすることでもある。*5
「松村北斗」という人間の輪郭を、彼の人生全体の中に位置付けられた「アイドル松村北斗」として語る。(ご本人は篩にかけるなんて自虐的に仰るけど)その輪郭ごと愛するように、愛せるように、と試みられているキャラクタ造成は確実に一定の輪郭を描いていて、見る者に一定の(しかし見方により多様に写る)骨を推認させることに成功しているものであると感じる。
そんな北斗さんだからこそ、ずっと私が見ないふりし続けてきた苦しさと向き合うきっかけを、溢れんばかりの愛おしさをもたらしてくれたのだと思う。
そしてそんな強烈な愛おしさが、私の世界を丸ごとひっくり返して私ごと全部好きにさせてくれた。
私を取り巻く何かがあの夜のうちに具体的に変化したわけではないけど、それでも確かに自分の人生を生きていく自信をこの手に掴んだ感触があった。
運転 2
今日も、仕事へ行くために家を出る。ゆっくり向かっても始業時間の15分前には確実に着く、いつもと全く同じ時間。周囲をよく確認して走り始める。いつもと違っているのはBluetoothを繋げたスピーカーから『こっから』が流れていることくらい。
だけど、今までの私よりもずっとずっと、今日のことが好きだ。人として生きる今日が、ドラマチックさの欠片もない今日が、自分でも驚くくらい愛おしい。
法定速度を守った私の車が、今日も安全に私を職場まで運ぶ。黄色信号を確認してゆっくりと減速し、停止する。
だけど今止まってこの信号を待っているこの瞬間もちゃんと私の人生の1ページで、ちゃんと動いている。
生きていれば、悔しいことにも、嫉妬でいっぱいになることにも、この先いくらでも遭遇する。
それでも、あの夜私の手にSixTONESが握らせてくれた自信を大切に守り育てて、私の人生を含む世界のことを好きでいられたら、多分それで満点だ。
SixTONESが好きだ。
一点の曇りもなくそう思いながらする私のドライブには、私の穏やかな運転がうってつけで、そのことを心から嬉しく思った。
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架空のブログなのにまさかの8000字超。
CDTVの感動を表現するために、もし私が画家なら絵筆を取ったしミュージシャンなら1曲掻き鳴らしたし詩人なら一節吟じたところだったのですが、残念なことに私はただのオタクに過ぎなかったのであり余るパッションをこのブログに全部ぶつけました。その結果がこれです。
言葉にしておきたいと思っていたことを詰め込んだ結果として到底プレーンな沼落ちブログとは言い難い、大分癖の強い仕上がりになってしまいました。
こんなものを北斗さんのお誕生日に上げるのもどうかという気がしないでもないですが、もしここまでお付き合いくださった方がいらしたとしたら嬉しい限りです。
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