北極のペンギンたちについて

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アイドルの概念とアイドルの語るアイドル論が好き

北極のペンギンたちについて

“松村北斗”という多面体を巡る『ガラス花』の構造的な面白さ

松村北斗”という人間の生き様が大好きなオタクの1人として、初のソロ曲として『ガラス花』を受け取ったこの感動を140字にまとめることはできそうになかったのでブログにしておくことにした。

アイナさんについて詳しい訳ではないのでズレている部分もあるかもしれないが、思うままに1オタクが書き殴った感想として受け取ってもらえれば幸いである。

 

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誰しも色々な側面を持っているものだとは思うが*1、北斗さんはとりわけその多面性をダイヤのカットのように輝かせる素質と技術を持っている方だと思う。

アイドルとしてステージ上で見せる顔、役者としてカメラの前で見せる顔、ラジオのパーソナリティーとして発する楽しくて仕方がないという声。全く違う側面をいずれも嘘くささなしに完全に並立させている。

誠実で透き通った真っ直ぐな綺麗さを抱えたまま独特な角度をつけて世界を観察することのできる稀有な人だからだろうか。自分の中にあるものを真実のまま増幅させる技術が磨き抜かれているからだろうか。理由を完全に言語化することは到底不可能そうなのでひとまずこの辺りにしておくこととするが、ともかくとして彼のもつ多面性はいずれも芯ある輝きを放っており、それこそが“松村北斗”という人間の大きな魅力になっていると思っている。

だから、初めてのソロ曲のテーマが“松村北斗という作品”であること、そして多面性がキーワードになっているらしいと知った時は飛び上がって喜んだ。

 

ガラス花の好きなところはいくらでも語れそうだが*2個人的に最も好きなのは2つの意味で構造的な面白さがあるということである。

 

 

構造的な面白みの第1の点は“役者・松村北斗”の共演者が書き下ろしていることに由来する。

ダイジェスト版のメイキングでは“松村北斗という作品”の意味する全容がどのようなものなのかよく分からなかったが、メイキング本編を確認し曲をフルで聴いて把握することができた。

「夏彦青年を演じていた松村北斗」こそが撮影現場でアイナさんが見た“松村北斗”のすべて

スクリーンで見ることができるのは「カメラの前で彼が夏彦青年として生きた姿」であるが、今回のガラス花という作品ではそこから一歩カメラのアングルを引くことで見えたものが切り取られているのだと受け取った。

役者としてのお仕事について、北斗さんが「自分と似ている部分を探りながら演じる」という趣旨のことを仰っているのをしばしば聞く。*3

音楽と人(2023.9.13p)でも

たまに撮影していて、演技しているけど素で喋っているような感覚になる時があるんですよ。特に岩井さんの作品はそういうのが強くて。自分のようで自分じゃないし、自分じゃないようで自分でもある。

と言及されているが、これはまさにそんな彼の役者としてのあり方を端的に表現したものだと思う。そしてここに続けて「ガラス花もそのような曲である」とも語っていた。

「自分であって自分でない、自分でないようで自分である」。松村北斗という多面体の一面に存在する“松村北斗”ではあるが、実際にこの世に存在しアイドルとして・役者として生きている“松村北斗”そのものではない。

異なる意味での“自分”の揺らぎの狭間の、まさにその現場を見ていた人が“松村北斗”そのものをテーマに曲を書くという構造になっているのである。演じる人にしか生まれない稀有な場面を意外な方法で写しとるという面白みを強く感じる。

 

第2の点は、ガラス花の場面設定に由来する。

物語から想像される夏彦青年と松村青年は別物であると感じている。完全に個人的な解釈に過ぎないが、ガラス花が書いているのは、「撮影現場において北斗さんが夏彦青年の人生を生きたその姿から推認される“松村北斗という多面体の一部”(=アイナさんにとっての松村北斗)から更に社会的な文脈を取り去った剥き出しの人物像に、夏彦青年が置かれていた場面設定の一部をスライドさせた場面」ではないか。(「松村北斗の一側面が仮に夏彦青年が置かれたような状況に陥った際にどんな言葉を発するのか」というifを曲にしたような感覚)

ここで第1の点として先に述べた内容を補助線にしていくと、夏彦青年という人間に松村北斗という人間の一側面を共鳴させていた現場で見出し取り出した松村北斗像を、改めて夏彦青年の場面設定に差し込むことで生まれた作品であるという構造が見えてくる。

(しかもそれがアイドル松村北斗としてリリースするシングルのソロ曲となる)

こんなにも複雑な構造を5分42秒の中に詰め込むこと。松村北斗という多面体を表現するのにこれほどトリッキーで、しかしピッタリな方法が他にあるだろうか。

ソロ曲を作ると聞いた時には想像だにできなかったけれど、誠実な彼が大切に繋いだご縁が想像を遥かに超えるかたちで結実したことが嬉しくてたまらない。

 


北斗さんに出会って以来ずっと、数えきれないくらい沢山の宝物となる作品を受け取らせていただいている。未来のことは分からないが、これからもこんな幸せな時間が続いたら良いなとも思っている。

それでも、今日ガラス花が私にもたらしてくれた感動は後にも先にも無二のものとなる確信がある。

松村北斗というアイドルの初のソロ曲、彼が敬愛して止まない岩井監督がメガホンをとった『キリエのうた』という作品、そしてその現場での彼を誰よりそばで見ていた美しい言葉を紡ぐアイナさん。この瞬間にしか交わり得なかった3つの交点が『ガラス花』というかたちになり私たちの手元に届いたこの幸運を、この曲を大切に大切にすることでゆっくりと噛み締めたい。

*1:ノキドア最新回でもその話をされていたので勝手にタイムリーに思えて心が躍った ちょろいオタクなので常に勝手に楽しい

*2:美しく新鮮ながらも素朴な優しさを持つ歌詞、言葉と音楽が絡み合うあり方、北斗さんの声質が最大限に生きるディレクション、等々

*3:今回のキリエのうたは監督による当て書きの部分があるそうなので、尚更役の人生と彼自身の内面が共鳴する場面は多くあったかもしれない

【架空沼落ちブログ】法定速度遵守な私の人生に突如として現れた黄色信号でもアクセルベタ踏みな男たちについて

 

これは架空の沼落ちブログです。

ただ、100%嘘というわけでもありません。半分くらいは本当にあったことで、半分くらいは虚構です。どこまでが書き主のリアルかはご想像にお任せします。ひとつだけ断っておくと私は車の免許を持っていません。

何故か私のリアルな沼落ちブログよりも長い酔狂なブログに仕上がってしまいましたが、付き合ってくださる方がいらしたら幸いです。

(なお架空沼落ちブログの書き手は最終的にアメフラシというアカウント名で北斗担としてTwitterをやっている設定です)一応私(aliali)のリアルな沼落ちブログも貼っておきます。よろしければぜひ↓

ali-0416.hatenablog.com

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まさに青天の霹靂。

 

晴れとも曇りとも言い難い微妙な天気を体現したみたいな私の人生において、まさか「青天の霹靂」などという大仰な言葉を使う日が来るなんて思ってもみなかった。

 


202365日、CDTV

私がSixTONESに出会った日。私の人生が少しだけ、しかし大きく変わった日。

あの時の衝撃と感動と喜びの熱量とを、ここに言葉にして残しておこうと思う。

 

 

 

 

運転 1

車の運転は得意な方だ。

厳しいことで有名な地元の自動車学校の教官からベタ褒めされたくらいには、自動車の運転に関して適性があるという自負がある。

黄色信号が見えたら緩やかに減速して、衝撃が走らないように停車する。急ブレーキも急アクセルも踏まない、縦揺れや横揺れの少ない、安全で、間違いのない運転。毎回毎回ドライブを終えるとYahoo!カーナビが誉めてくれるので気分が良い。

 

初めて母を助手席に乗せた時、ふたりきりの空間で母がポツリと溢した「あめちゃんの人生みたいな運転ね」という言葉は肯定的なニュアンスだったのか、はたまたそれ以外の意味を含んでいたのか。

誰よりも私をよく知っている母のあの言葉が鋭く私を形容していることを確信しているが故に、とてもじゃないが怖くて聞けなかった。

 


公道ですれ違うには安心安全な最高のドライバー、でもワクワクするようなドライブがしたい人にとってはあまり優秀なドライバーとは言えないかも。じゃあ私自身を乗せて人生を走るドライバーとしてはどうだろうか、なんて。

人生の選択を強烈に後悔している訳ではない。むしろ後悔しないように常に選択し続けた結果なのだからこれが最適なはず。

大丈夫、これで良い、間違ってない。

 

納得して進んでいるはずなのに、自分の人生を語る言葉がいつも言い訳じみた響きを孕んでしまうことに、何かを偽っているような感覚が拭えないことに、どこか虚しさを覚える。

私たちを一方的に評価してくるものが周りにいくらでも存在して、何も考えずにそれらに応えていた頃には感じずに済んでいた(あるいは見て見ぬふりができていた)不安が日に日に顕在化して私を蝕んでいく。

 

多分このじんわりシクシクとした痛みは、私のすべてを急に決定的に壊してしまうような力を持つものではない。だけどきっと少しずつ私を歪にして、テセウスの船みたいに私を作り替えて、いつか私を私でなくしてしまう。そんな予感に支配されていた。

彼らに出会ったのはそんな時だった。

 

 

 

 

号泣

 

沼落ちまであと4時間。

 

家に帰ってきて何となくテレビを付ける。特段見たいものがある訳ではなかったけど何となく音が欲しくて、それが一人暮らしを始めて以来の習慣になっていた。

 

 

 

 

軽快なステップに華やかな画面。

ご機嫌なバンド。

共鳴し合って増幅する音を楽しむ空気感。

視線が吸い寄せられる。

どうしてだろう、彼らがあまりに楽しそうだったからだろうか。

 

途中で様子が変わる。

いつもの癖で字幕を追う。

だいぶ切実で赤裸々な歌詞なのね、なんて思いながら。

 

気付いたら、いつの間にか目が離せなくなっていた。

 


目まぐるしく色が変わる画面。

 


黄色信号でずっと進行

辛抱した先は歩こうぜレッドカーペット

よりどりミドリってさっき言ったろ?

明日ありと思う心の仇桜

生きてることが青天の霹靂

 


そしてついに最後、が叫んだ。


しかし悔しさで黒く燃える腹ん中!!

 燃やせ!燃やせ!燃やせ!

 

 

 

画面の向こう側の彼の声帯が鳴る。


上滑りしていた乱雑な思考の山をグチャっとかき分けて、彼の声が鮮烈に、強烈に、脳の中まで染み込んでくる。

 

彼は生きているんだ、と思った。

あんなに大きな声を、彼は今、腹から出している。

 

あの人は今、あそこで生きている

 

「いきている」と小さく言葉にしたら無意識のうちににボロボロ涙が溢れ出してきて、自分が泣いていることに気付いたら更に涙が止まらなくなって、それから声を上げてわんわん泣いた。

パフォーマンスに感激して泣いたんじゃない。彼がかっこよくて泣いたのでもない。

彼と比べて自分が惨めで、悔しくて、そんな自分が心から嫌だったから、自分のために泣いた。

 

彼が出した声より大きな声を出して泣かないと、もう私は私でいられなくなってしまうような気がした。声が枯れて、頭の中の冷静な私がこれ以上泣くと明日困ると考え始めても、また無理に声を上げ直して泣き続けた。今までの分全部、今ここで泣き切らないといけないような気がした。

 

あんなに泣いたのは、というか大きな声を出したのは、愛犬を亡くした日以来かれこれもう10年ぶりくらいだった。

こんなふうに声を上げて泣くことができる自分がいたことに驚いた。

 

 

 

泣きに泣いて、手近にあったボックスティッシュ1箱使い果たした頃、横隔膜がヒックヒックしはじめる。

剥がれたマスカラと涙が頬に張り付いて、噛み続けた鼻先がヒリヒリする。

そこまできてようやく徐々に落ち着き出して、不思議とスッキリした心境に至る。

 

少し痛む頭でぼんやりと「涙活って本当に効果があるんだな」などと考えていたのを覚えている。

 

 

 

 

人 アイドル

 

そしてふと思う。

あれ、そういえば私、一体何を見て泣いたんだっけ。

 何に泣かされたのかすらよく分からずに小一時間泣き続けていたのである。1時間前くらいの朧げな記憶を頼りにTwitterの検索窓に打ち込む。

 

「真っ黒に燃える腹ん中 燃やせ」

後の自担、松村北斗との出会いである。

 

 

 

もっとも、ここまでこれだけ長々と書いておいて大変恐縮なのだが、ここでそのまま即沼落ちという訳にはいかなかった。

 

沼落ちまであと3時間。

 

 

 


ここから、Twitterで得た情報を頼りに『人人人』をYouTubeで検索してみる。

 

YouTubePLAYLIST『人人人』


www.youtube.com

 

そこにいたのは確かにアイドルで、しかし同時に人だった。

人がアイドルになる、その瞬間が最高のエンターテイメントとして彩られている。とびきり楽しそうに、とびきり魅力的に、がアイドルを纏う瞬間を歌い上げている。

 


人、そうか、アイドルも人なのか。

 

 彼らが見せているのは、膨大なとしての人生における、アイドルという仕事をしている限られた時間の中の、更にそのごくごく僅かな瞬間にすぎない。

確かに黄色信号でもアクセルはベタ踏みだけど、しかし「人」である以上むやみやたらに交通事故に遭うわけにはいかないのもまた事実であって、予めきちんと交通整理をして車を退かせてから爆走する。

 


「人だけど」というより「人だから」、私は彼らに惹かれた。

MVで、ストチューブで、ラジオで、彼らが見せる「人でありアイドルである」側面を心から愛おしいと思った。

 

 

石橋を業者に調べてもらってから昼間にガンダで渡る

 

彼らは必要以上に石橋を叩いている姿を見せない。

石橋強度の測定業者(?)を呼んで、見積もりを出して、日取りを決めて、提出された調査報告を読んで、実行を決めて判を押して、計画を立てて、見られ方のリハーサルをして、当日そこまで移動していた瞬間が確かにあるはずだけど、私たちはそれを知らない。

 

「地に足がめり込んでいること」は教えてくれても、地面の下の足を私たちに見せることはない。

 

どこまでを見せて、どこまでを見せないかの境界線を引くイニシアティブは、常に彼らの手の中にあるように見える。*1

 


その煌めきをもって私を号泣させた松村北斗というアイドルは、ステージに上がる前に大量のアクセサリーを付けて武装するらしい。「生身ではステージに立つメンタルではないから、大量のアクセサリーを見に纏うのだ」と。

ステージの裏側にいるはステージ上の彼とは別もので、しかしステージの裏側の彼と地続きな肉体を、人生を共有している存在である。私の知らないステージの裏側の彼がいるから、私が目撃したステージ上の彼も存在している。

 

中学時代にこんなエッセイを読んだことがある。*2

桜染は、桜の花びらによってではなくて、桜の皮によって染める。桜が咲く時期になると桜の木は全身で懸命に桜の色になる。

花びら一枚一枚が大きな幹を背負うように、ひとつひとつの言葉は背後にその人の世界全体を背負うのである。

*3

アイドルの提供してくれるエンタメにも、似たところがあるように思う。私たちが見ることができるのは色付いた花びらだけだとしても、それは確かにステージの裏側を背負っている。

 

あまりにステージ上の彼らが煌めいているから、その裏側に流れる時間ごと全部愛おしいと思った。嫉妬も劣等感もエネルギーにして奮起するそのあり方ごと、全部。

 

話したこともないし、会ったこともない。彼らの全てを知っているなんて間違っても思わないし、知りたいとも思わないし、知り得ない。

それでも、彼らを今愛おしく思う私のこの気持ちは、絶対に嘘じゃない。

 

 

風呂

 

――と、ここまで書けば流石に沼落ちしただろうと思われるだろうが(というかまあ落ちているといえば落ちているのだが)残念、沼落ちまではもう1ステップだけ必要だった。

なにせ彼らの輝きや愛おしさを感じれば感じるほど自分が惨めで悔しくて、そのせいでどうしても「好きだ」とは言いたくなかったから。

 

好き」というのが私と相手の間に生まれるもので、「愛おしい」というのが私が他者に対して抱く一方的な評価であるとすれば、前者の意味での「好き」を確信した上でそれを間近で見続ける選択をするのはきっとあまりに酷でつらくてしんどくて、そんなことを続けていたらどうにかなってしまいそうだと思った。それだけはどうしても避けたかった。

 

その意味では、誤解を恐れずに言葉を選ぶとしたら、私の人生においてあの数時間だけ「知らない」でも「好き」でもない、強いて分類するなら「嫌い(たい)」に近い状態だったと言えるのかもしれない。

 


沼落ちまであと3分。

 

 

 

 

 

 

ここで私はまだお風呂に入っていなかったことを思い出す。

ぐちゃぐちゃな顔を洗ってさっぱりしたい。

 

 シャワーを浴びようと栓をひねる。

私はそこでささやかな悲劇に見舞われた。昨晩風呂掃除をした時に水温をかなり下げたままにしてしまっていて、そのせいで頭から勢いよく冷水を浴びる羽目になったのである。

ヒャアアと中々に大きな声が出る。散々大泣きして声出しが済んでいたおかげか一際大きな声が出た。

 

冷たい。

身体がびっくりして一気に鳥肌が立つ。

 

 


その刹那、頭の中で火花が散るような、経験したことのない興奮がバチンと頭を駆け巡った。ここが令和の日本ではなく古代のシラクサだったら、そのまま風呂場を飛び出して叫んで回っているところだった。映画のワンシーンのような衝撃。

こいつは何当たり前なことを今更言っているのだと思われるだろうが(というか改めて今こうして言葉にしようとすると正直自分でも何を言っているんだという気がしてくるのだが)冷たさに飛び上がった私の身体を知覚して、それで私も人だと思った。

それと全く同時に、つい先程手に入れたばかりの人であるSixTONESが愛おしいという感情がその瞬間ピャンと跳ねて、概念そのものにまで飛び散った。

勢い余ってあらゆるのことまで愛おしくなったのである。

 


人が好きだ、私は人だ、故に私は私が好きだ。

バカみたいな三段論法だけど、でもバカみたいに素敵だ。

なんてことだ、私の身体に流れる時間ごと愛おしい。

これなら「好き」という言葉をなんの衒いもなく使えると思った。嬉しかった。

 

 

彼らがいるからこの世界も悪くないと思えるどころの騒ぎじゃない。彼らをきっかけに、この世界まるごと好きになってしまったのだ。

オセロ盤上では2つの石で挟まないとひっくり返せないけど、地球は丸いからSixTONESというひとつの石を真ん中に置いただけで、まるごとひっくり返してしまえるらしい。

 

大事件である。脳内の私が駅前で号外を配りまくっていて、同時に脳内の私が次々にその号外を受け取って眺めては一様に目玉が飛び出るくらい驚いている。

喜びと、感動と、感謝とが、花火みたいに次々に炸裂した。


ストーンズ スキ

ヒト スキ

セカイ スキ

人里に下りてきた心優しい化け物みたいなことを、大真面目に思った。

 

 

遂に沼落ちである。

テレビの前でもスマホの前でもなく、まさかの頭から冷水を被った風呂場で。

CDTVを見てから3時間強、日付を跨いで66日。京本さん命名のすとーんずラブの日である。なんという奇跡。

 

 

 

 

 

自信

 

私の人生にはこれまでも、そして多分これからも、彼らのようにド派手でかっこいいステージに立つ瞬間は訪れない。それでも彼らと同様に私の身体にも流れる今日という日は、誰かを直接魅了して彩ることはなくとも、同じように流れている。

私も生きている。

 

今までの私は漠然としたナニカを仮定して、「にも関わらずそれが私の手元にない」満たされなさを誤魔化そうと必死だった。

だけど私にとって真に必要だったのは存在すら定かでないナニカなんかではなくて、「そこに既に存在しているものが愛おしくて、かつ好きだ」という気持ちだったんだと思う。そしてそこには、ずっと私が動かしてきた、何よりも私のそばにいた、「私」も含まれているべきだったのだ。

 


私は松村北斗が、SixTONESが、大好きだ。

そして同じようにして私自身のことも好きだ。

 

 

沼落ちの日について振り返ってみて、松村北斗というアイドルが特にその輪郭を「語る」ことに秀でているアイドルであったから、私はあんなにも衝撃を受けたのではないかと思っている。

背後に背負った人生を的確に「語る」。

「語る」という言葉を使ったが、ここでは言語的なものだけでなく非言語的なものも含めて想定している。*4

本来、その人がどういう人間なのかなどということは、その人自身にすらよく理解しきれないものである。むしろ「私はこういう人間です」などと端的な言葉で表現しきれてしまったとしたらその瞬間に積み重ねてきた膨大な時間が急に軽薄なものに成り下がってしまう気がするから、そんなことはできない方がいいとさえ思う。

しかしながら、私という人間を分析していくことで私という人間の骨組みをなんとなく掴むことはできる。細胞ひとつひとつはシミュレーションできずとも、私という体がどう動くのか把握することはできる。

ただここで問題になるのは、「骨そのものを語る」ということは時に無骨で、時に生々しいという点である。エンタテイメントの介在する余地に乏しいのでもれなく随分と深刻なトーンになってしまう。

それを避けながら「私」の話をする方法が「輪郭をトレースさせて、概ねどこにどんな風に骨があるのかを推認させる」というやり方だと考えている。輪郭の筆致にユーモアや煌めきを含み込ませながら語ることで、それらはエンタテイメントに昇華されていく余地を獲得する。

松村北斗というアイドルは、その骨を掴む徹底した自己分析と、「語り」の技術とにおいて、卓越したものを持っているように思う。

「輪郭を語る」とは、具体的には、長いフリートークでどんな風に自分が考えながらある物事を遂行したのかを語ることであり、ユーモアたっぷりにインスタライブのコメントを返すことであり、たくさんの指輪と共にステージでギラギラとパフォーマンスをすることである。そして、「しかし悔しさで黒く燃える腹の中」とシャウトすることでもある。*5

松村北斗」という人間の輪郭を、彼の人生全体の中に位置付けられた「アイドル松村北斗」として語る。(ご本人は篩にかけるなんて自虐的に仰るけど)その輪郭ごと愛するように、愛せるように、と試みられているキャラクタ造成は確実に一定の輪郭を描いていて、見る者に一定の(しかし見方により多様に写る)骨を推認させることに成功しているものであると感じる。

 

そんな北斗さんだからこそ、ずっと私が見ないふりし続けてきた苦しさと向き合うきっかけを、溢れんばかりの愛おしさをもたらしてくれたのだと思う。

そしてそんな強烈な愛おしさが、私の世界を丸ごとひっくり返して私ごと全部好きにさせてくれた。

私を取り巻く何かがあの夜のうちに具体的に変化したわけではないけど、それでも確かに自分の人生を生きていく自信をこの手に掴んだ感触があった。

 

 

 

 

 

運転 2

 

今日も、仕事へ行くために家を出る。ゆっくり向かっても始業時間の15分前には確実に着く、いつもと全く同じ時間。周囲をよく確認して走り始める。いつもと違っているのはBluetoothを繋げたスピーカーから『こっから』が流れていることくらい。

だけど、今までの私よりもずっとずっと、今日のことが好きだ。人として生きる今日が、ドラマチックさの欠片もない今日が、自分でも驚くくらい愛おしい。

 

法定速度を守った私の車が、今日も安全に私を職場まで運ぶ。黄色信号を確認してゆっくりと減速し、停止する。

だけど今止まってこの信号を待っているこの瞬間もちゃんと私の人生の1ページで、ちゃんと動いている。

 

生きていれば、悔しいことにも、嫉妬でいっぱいになることにも、この先いくらでも遭遇する。

それでも、あの夜私の手にSixTONESが握らせてくれた自信を大切に守り育てて、私の人生を含む世界のことを好きでいられたら、多分それで満点だ。

 


SixTONESが好きだ。

一点の曇りもなくそう思いながらする私のドライブには、私の穏やかな運転がうってつけで、そのことを心から嬉しく思った。

 

 

 

 

 

 

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架空のブログなのにまさかの8000字超。

CDTVの感動を表現するために、もし私が画家なら絵筆を取ったしミュージシャンなら1曲掻き鳴らしたし詩人なら一節吟じたところだったのですが、残念なことに私はただのオタクに過ぎなかったのであり余るパッションをこのブログに全部ぶつけました。その結果がこれです。

言葉にしておきたいと思っていたことを詰め込んだ結果として到底プレーンな沼落ちブログとは言い難い、大分癖の強い仕上がりになってしまいました。

こんなものを北斗さんのお誕生日に上げるのもどうかという気がしないでもないですが、もしここまでお付き合いくださった方がいらしたとしたら嬉しい限りです。

 

強欲ついでに、こちらまで感想を投げてくださると一層喜びます↓

marshmallow-qa.com

 

*1:現実には全部が全部そういう訳にもいかない場面もあるのだろうけど、私は少なくともそのイニシアティブを彼らから奪い取りたくはないし、奪い取ろうとするような消費の仕方には否定的な立場である

*2:中の人注 つじさんのこちらのツイート

つじ on Twitter: "桜と聞くといつも中学校の国語の教科書に載ってた「言葉の力」というエッセイのことを連想するんですが、まさにそれだなと思った" / Twitter

を拝見して思い出したエッセイです つじさんありがとうございました

*3:大岡信『言葉の力』を筆者が要約したもの

*4:なぜそんなわかりにくい言葉を選んだのだと言われそうだけど、「表す」でも「伝える」でもない、言偏の動詞からしか表現できない彼の文学的なあり方をなんとかして言葉にしたかったのである。許して。

*5:私は語りの技術が不足しているせいで骨を骨として語ってしまいがちなので本当に北斗さんを尊敬している

逆接ソングとして『こっから』を聴く

 

51日の結成日、SixTONESのオフィシャルサイトにSONYさんが用意してくださったお祝いメッセージのモチーフが「だが、情熱はある」の「、」の部分であった(と私は理解している)ことは記憶に新しい。

 

読点の役割について分類した研究を確認したところ

1 節間に打たれる読点
2 係り受け関係を明確にする読点
3 難読・誤読を避ける読点
4 主題を示す読点
5 先頭の接続詞・副詞の後に打たれる読点
6 並列する単語・句の間に打たれる読点
7 時間を表わす副詞の後に打たれる読点
8 直前の語句を強調するための読点
9 その他

(村田他 2012 p.2

9つの用法に分類することができるとのこと。

 

今回の場合の読点の用法を上記分類に従ってひとつずつ検討していくと「先頭の副詞・接続詞の後に打たれる読点」と「直前の語句を強調するための読点」というふたつの用法の可能性が考えられそうである。

 

前者の場合「前置きの語を区切るという目的」で挿入されるらしい。(同 村田他 p.4)「だが」という接続詞の後で一旦区切って整えた上で「情熱はある」という後文を迎えるという役割を果たしている。

後者の場合「執筆者の意図に依存」して自由裁量で打たれるものとされている。(同 村田他 p.2)今回の場合、直前の「だが」を強調するはたらきを製作者が意図していることも考えられる。

 

ドラマ中において「だが、」は「たりないふたりだが、情熱はある」という逆接の流れの象徴である。

 

ネガティブな内容の前文に続けて「だが」と切り出し、続く後文が登場する直前に一拍置き切り離す。極限まで強められた「だが」によって内容を転換し、反対の内容であるポジティブな(前進的な)後文を導く。

逆接の接続詞「だが」をこれ以上なく効果的に際立たせる読点であると言えよう。

 

 

 

逆接

 

「逆接」というキーワードから捉え直していくと、ネガティブ→ポジティブの逆接がSixTONESの得意分野であることを連想せざるを得ない。

 

最初から順風満帆だった訳ではない。完全無欠なロボットではない「人」である以上、緊張もするし悩みもする。

だが、6人集まれば強くなれるし、無防備にだってなれる。*1

“6人でいると不思議と最強だと思える”と折に触れて語る彼らの生き方の片鱗を見せていただいている身として、最高に逆接の似合う6人だということを声を大にして主張したい。

逆境から始まり、それでも「だが」を繰り返して今を積み重ね、賭けに勝ち続けてきたSixTONESさんだからこそ、彼らの語る逆接にはこれ以上ない説得力がある。

 

このようにして逆接の在り方を歌った楽曲を「逆接ソング」と定義すると、これまでも多くの逆接ソングを歌ってきていることに気付く。

例えば

飛び立つのさ 土砂降りの雨の中 

と歌ったデビュー曲 Imitation Rain

*2

あるいは

賽を奪われた世界 奈落の淵で 轟かす共鳴

と歌った共鳴。

これまた壮絶なSixTONESの逆接の歴史をなぞっている。

そもそも「賽を投げる」という行為は、一か八かの勝負に出るきっかけとなる賽そのものは自分の手の中にある人間にしかできないのである。手の中にその賽すらない、奈落の淵・絶体絶命の状況から始まったSixTONESだが、6人なら叫べた。鳴らした音に誰かが共鳴し、それが連鎖してきた結果として今があると歌う。

どこまでも強烈な(しかもこれも佐伯さん*3作曲の)逆接ソングである。

 

その意味では、正面から逆接と向き合った『こっから』は、これまでさまざまな楽曲において逆接を歌ってきたSixTONESのひとつの集大成であると捉えることができる。

 

どれだけ上手くいかなくても、天才じゃなくても、「こっから」始めよう!

こっから | SixTONES(ストーンズ) Official web site

公式ホームページで公開されている楽曲紹介文は、まさにそんな『こっから』の在り方を端的に表現したものといえる。

 

 

 

逆接と否定

もっとも、同時に

「逆接」ではあるが、「これまでの否定」を意味するものではない

という点については、かなり重要なのでしっかりと注釈を入れておかねばならない。

自分は自分のままでしか生きられないのである以上、「これまで」を肯定しなければ「こっから」も肯定できない。三者は「劣等も嫉妬も叱咤なる燃料」と宣言して過去と今を肯定的に捉え直してこそ未来(=こっから)をも肯定して前進できるという関係にある。

『こっから』が力強くも優しさのあるSixTONESらしい人生讃歌に仕上がっているのは、そんな過去と今と未来への丁寧な肯定の軌跡が曲中に現れているからだと思う。

 

 

 

余談だが、このことは(意図的にか偶然にかはともかくとして)韻によっても表現されているのかもしれない。

「ない」という否定形から始まる強烈な葛藤から決意までの過程を歌った「ワルクナイ」パートを「ai」が貫いているのである。

ai(nai tai sai kai

nai・tai・sai・kai等、常にaiで押韻しながら展開

悪くない warukunai

間違ってない matigattenai

自分じゃない jibunnjanai

せいにしたい seinishitai

天才じゃないの tennsaijanai

わかんなさい wakannasai

フィクションじゃない fikushonnjanai

よく見なさい yokuminasai

天賦の才などない tennpunosai nadonai

やめられないみたい yamerarenai mitai

馬鹿みたい bakamitai

見てみたい mitemitai

未来 mirai

限界 gennkai

正解 seikai

「ない」にも「愛 ai」が含まれる。「自分達のたりなさごと含めて肯定して燃料にする」という姿勢をこんなところにも宿らせているとしたら、あまりに巧みな言葉の使い方にただただ驚くばかりである。

 

 

 

 

全員の名前に「、」が含まれていることに気付き、周年のタイミングでこっからのSixTONESさんへのエールに代えて教えてくれたSONYさん。

 

どんな状況でも「だが、」とさえ言えればこちらのもので、前に進むきっかけが得られる。逆接の強さがあれば「こっからまた始めよう」と言うことができる。

 

「だが、」はもちろん、ドラマの主人公のふたりについてのみ妥当するものではない。

「ドームという大きな舞台に辿り着いた、だが、まだまだこっからである」というSixTONESさんについてもそうだし、誰かの人生に必要なだが、でもある。

 

どんなに苦しい時も、まだまだ頑張らなければならない時も、無条件で繰り出せる「だが、」をプレゼントしてくれる『こっから』。

 

私の人生のネガティブな前文も、誰かの絶望的な前文も、あるいはSixTONESの旅路という前文も、「だが、」と切り出す強さで転換してグッと踏ん張って、天才じゃなくとも限界を超えて、何度でも「こっから」始められたらと思う。

 

 


www.youtube.com

 

 

引用

村田国輝・大野誠寛・松原茂樹(2012)「読点の用法的分類に基づく日本語テキストへの自動読点挿入」『電気情報通信学会論文誌 DVol.J95-D No.9183-9

https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_action_common_download&item_id=69512&item_no=1&attribute_id=1&file_no=1

 

*1:常温さんのこちらのツイート参照

常温 on Twitter: "やっぱり京本さんの「一人一人は傷つきやすくても、6人集まると無謀で、無防備になれる」って言葉すごく好きだ 無謀でいられるほどの信頼のおける、無防備でいることで傷がついても一緒なら構わないって思える人たちがいるのって生きる上でとんでもない財産" / Twitter

*2:歌詞に無粋な注釈をつけるのは躊躇われる気もするが、今回の文脈に即して表現するとしたら「土砂降りの雨の中、だが、飛び立つ」ということになる

*3:佐伯さんの描くSixTONESは割と逆接を歌っていることが多く、佐伯さんの解像度、姿勢と解釈の一貫性に改めて感動する

ジェシーとブラックホール

 

喩える

 

ジェシーさんを喩える言葉は枚挙に暇がない。

 

太陽、キャプテン*1、月、覇者、王様、ハリウッドスター…等々

 

オタク側が言っているものから最強の右腕が語っているものまで様々ではあるが、どれも本当に素敵な比喩だ。

個人的な話で恐縮だが、私が「人の魅力を何かで喩える」という行為をしたくなるのは、“すごい”とか”かっこいい”とか、そういう既存の直接形容できる表現では溢れて全然足りないと思うほどの魅力を実感した時である。

直接それを表現することは難しいが何とかして言葉にしたい。そういう時に、何か別の物の性質を利用することでなら表現できるかもしれないと考えて、喩えることを試みる。*2

だから、“喩える”という行為が私は好きだ。他の人のする比喩についても、何とか言葉にしようとして森羅万象の中からそれを選んだその人の、その選択に至る葛藤や思索ごと愛おしく思っている。

 


そういうわけで、彼の誕生日によせて私も彼をひとつの比喩を用いて形容してみようと思う。

 


 

ジェシーさんは、ブラックホールみたいな人である

 

 

質量

 

彼に惹かれる気持ちには、(彼が愛を施してくれる人だからありがたいというのはありつつも)それだけでは説明のつかない“抗えなさ”があるように思う。しかもその“抗えなさ”は決して嫌なものではなくて、むしろその波の中にいることを心地良く感じることができる類のものである。

平たく説明するとしたら「魅力的だから」ということになるのだろうが、もう少し言葉を尽くしてみる。

 

ブラックホールはあまりに質量が大きいために周囲のものを引き寄せる。

 

彼を見ていると多くの友人ひとりひとりに深く熱く柔らかい愛情を注いでいることに心から尊敬の念を抱くことがしばしばであるが、それは即ち彼の愛情を取り扱えるキャパシティが大きいということでもある。あまりに大きな愛情として全方位に愛を与える存在としてそこに存在することで、(あたかもブラックホールがその質量によって周囲のものを引き寄せるように)同時に周囲からも自然と愛を集める。

掃除機のように吸い上げるのではない。ただ“そのように在る”ことで惹きつける。

 

 

明暗

 

 加えて、彼の明るさの背後にはどこか底知れない暗さがある。

「ネガティブで暗くて人見知りだった自分を変えたいと思って意識的に変えた」という話を自らされているのを度々目にする。

繊細で緊張しいで、人の痛みに寄り添える人。その上で明るくあろうと、前向きであろうとすることができる人。意識的に口にした言葉を、いつしか本当にしてしまうだけの強さと誠実さと忍耐力のある人。

私たちは彼の口からサラッと語られる彼の人生のごく一側面であったりパブリックな場で見せる振る舞いであったりしか知らない訳だけど、それでも彼がただ底抜けに“明るいだけ”の人ではないということはよく知っている。

 


 

ブラックホールはその名の通り、中央はその質量の大きさから光をも逃がさないために真っ暗に見える。

しかしその外側は落ちていくガスによって極めて明るく輝く。

 


誰の目にも明らかな明るさと、中央の底知れない深さ重さが、双方嘘ではなく両立する。

思慮深さや繊細さに裏付けられた人生哲学が中央にどっしり構えていて、その外側に彼が努力で作り出した対人コミュニケーションスキルやキャラクターが存在する。

もちろんその外側にしても、彼の作り出した単なる虚構に過ぎないのではなくて、内側にブレずに存在する彼自身から供給される説得力があってこそ成り立つものである。

 

 

 

敬意

 

ジェシーさんは私にとって6人の中でもとりわけ掴めない方なのだが、同時に掴めないことを嬉しく思っている節もある。

だからこそ多分、彼のことをこんなにも色々な言葉を尽くして喩えたくなる。喩えたものとの相同性をどんなに解説しても私が彼を理解したことにはならないのだが、むしろ、それゆえにこそ、喩えるという営みが私にとっては最大限の敬意の表し方なのである。

 


ジェシーさんはブラックホールみたいな人だ。

 

 


彼は直接対価として返してほしくて他者に愛を与えているのではないのだろうけど、少なくともあんなにも愛情深い彼が、最大限に幸せでありますように。

これからの1年間も愛で満ちたものになりますように。

 

お誕生日おめでとうございます!

2023年6月11日

 

 

 

*1:キャプテンに関しては現に役職でもある

*2:いくつかの場合においては比喩というよりは

2つ以上の関係や機能が互いに類似していること,およびこの類似に基づいて未知のことを推しはかること

(ブリタニカ国際大百科事典より)

という意味での「類比」と言った方が適切な場合があるかもしれない。

『こっから』の韻と言葉遊びを可能な限り収集したい

『こっから』に込められた言葉の響きへのこだわりを可能な限り収集したいという衝動に駆られ、見つけられる範囲で書き出してみました。


www.youtube.com

悲しいかな当方音楽知識等を全く備えていないため、抜け漏れ誤り等相当あると思われます。

お手数お掛けして大変恐縮ですが、よろしければリプ・DM・マシュマロ等で教えてくださると幸いです!

marshmallow-qa.com

*1

heibo

Hey boy heibooi

平凡  heibonn

 

on

平凡 heibonn

Born boon

ニッポン nipponn

 

oyaa

オギャー ogyaa

荒野 koyaa

oyaaに合わせるために「荒野」はkoyaaと発音されている

 

ka(ika uka katto)が強調

ika

以下 ika

如何 ika

地下 tika

(掘れま)すか horemasuka

 

uka

知るか siruka

伸るか noruka

反るか soruka

 

しか(ねぇ) sikanee

世の中 yononaka

確か tasika

価値 kati

無価値か mukatika

 

katto

カッと katto

葛藤 katto

cut katto

「葛藤で kattode」と「cutできん kattodekinn」はkattoだけでなくその先のdeまで揃っている

 

tatte

なったって nanntatte

(葛藤で kattoode

生まれたtake umaretatteiku 

「take」と直前の「生まれた」の「た」を組み合わせることで「なんたって」と「tatte」の音を揃えている

 

aino aino

I know,I know  ainoo ainoo

壊したいの したいの kowasitainoo sitaino

ainoを強調するために「壊したいの」のkowasitや「したいの」のsitは素早く発音されている

 

(a)atteru

わかってる wakatteru

かかってる kakatteru

間違ってる matigatteru

光ってる hikatteru

 

kore nee

これじゃやれねぇ korejayarenee

これしかねぇ koresikanee

「できん」「ってる」「ねぇ」等々の組み合わせによって口語感が演出

 

ousi(oosi)

闘志 tousi

鉄格子 tetugousi

(壊し kowasi

どうし(ようもない)dousiyoumonai

童心 dousinn

努力し doryokusi「努力し」はousiを強調するためにdoryousiに近い発音

相思 sousi(相愛) 

怒涛のousiの畳み掛け 「この」と「その」で更に勢いがついている

 

annda

自分なんだ jibunnnannda

はずなんだ hazunannda

始まんだ hajimannda

 

ouri(oori)

(順番)通り junnbanndouri

(予定)通り yoteidouri

ローリン rourinn

より youri

どりdouri

(みどりdori

ouriの音で繋げるために「よりどり」はyouri douriに近い発音

 

karakann

こっから kokkara

どっから dokkara

わからん wakkarann

すっからかん sukkarakann

こらアカン korakann

(アカン)わ楽観 warakkann

難関 nannkann

 

hito

一人 hitori

人(だらけ) hitodarake

一苦労 hitokurou

 

ake

だらけ darake

なわけ nawake

 

ore

ore

これ kore

 

ai(nai tai sai kai

nai・tai・sai・kai等、常にaiで押韻しながら展開

悪くない warukunai

間違ってない matigattenai

自分じゃない jibunnjanai

せいにしたい seinishitai

天才じゃないの tennsaijanai

わかんなさい wakannasai

フィクションじゃない fikushonnjanai

よく見なさい yokuminasai

天賦の才などない tennpunosai nadonai

やめられないみたい yamerarenai mitai

馬鹿みたい bakamitai

見てみたい mitemitai

未来 mirai

限界 gennkai

正解 seikai

 

uikoso o ouae

好きこそ 物の上手なれ sukikoso monono joozunare

次こそ 終える根比べ tugikoso oeru konnkurabe

 

ttoumo

劣等も rettoumo

嫉妬も sittoumo

(叱咤 sitta

 

 

言葉遊び

6

1,2,3,4 転がる(56) でSixTONESの「6」

ローリン

楽曲『Rollin’

人人人

サイレンの音(ピーポー)とPeopleで人々+佐伯さん提供楽曲の『人人人』

*1:グレー部分は発音に寄せて表記しています 分解のしやすさを考えてヘボン式を混ぜてみました

最終的に愛〜年齢差からみる愛おしい関係性とその多様性の魅力について

一応SixTONES年齢差早見図を作ったのでこちらを確認しながら読んでいただけると幸いです↓

髙地生年月日 1994年3月8日 京本生年月日 1994年12月3日 田中生年月日 1995年6月15日 松村生年月日 1995年6月18日 ジェシー生年月日 1996年6月11日 森本生年月日1997年7月15日 きょもゆご同い年期間は12月3日から3月7日までの約3ヶ月間 きょもじゅり、きょもほくの同い年期間は6月15日(18日)から12月2日までの約6ヶ月間 髙地は京本とのみ同い年期間がある ほくじゅりは同年生まれ3日違い バニボトリオは6月11日から6月14日までの4日間だけ同い年 ゆごしんは最大で4歳差になる

SixTONES年齢差早見表

2024/03/08追記】髙地優吾さんは2024/03/08をもって年齢非公開となりました

髙地 優吾 | SixTONES(ストーンズ) Official web site
参考として SixTONESの入所順とSexyZone、King & Princeのメンバーのうち SixTONES同年生まれのメンバーの誕生日についても併記
 

 

******

SixTONESの魅力といえばパフォーマンスの圧倒性や個々のキャラクターの強烈さ、ブランディングの美味さ…等々いくらでも挙げることができるが、中でも個人的には人間関係の多様性(愛情の多様性)というのがかなり大きいと思っている。

 
すべてのコンビ、トリオ等々についてひとつずつ取り上げて様々な観点からアプローチして語りたい気持ちはあるのだが(いずれ時間を見つけてひとつずつやってみたい)それを始めると小説1本分くらいになりそうなのでここはグッと堪え、まずは年齢差*1という観点に絞って、軽く幾つかのコンビとトリオについて関係性とその愛おしさについて取り上げる。*2その上でそうしたSixTONESの関係性の多様性がもつ魅力についての言語化を試みたい。

 

※前半部は例示的に軽く流すつもりで書き始めたにも関わらず想像以上に長くなってしまったので、⒈は読み飛ばして 2.関係性の多様性と魅力についてへ飛んでいただいた方が良いかもしれません

1000字程度の8周年お祝いメッセージのつもりが気付いたら7000字近いブログになっていました…笑 お付き合いいただけると嬉しいです

また、もしよろしければ一押し年齢差起因エピソード等あれば教えていただけると幸いです↓

aliali(ありあり)にマシュマロを投げる | マシュマロ

 

⒈年齢差からみる愛おしい人間関係について

⑴実はきょもゆご同い年期間よりきょもじゅりほく同い年期間の方が長い(約2倍)

⑵髙地さんと同い年期間があるのは京本さんだけ

「俺たち年上組」的な顔を(特に京本さんは)よくしているので年上組としてきょもゆごを括りがちだが、実は同い年期間だけで言うと実は京本さんはほくじゅりちゃんたちと同い年の期間の方が圧倒的に長い。(約2倍)

髙地さんが誕生日を迎えてから京本さんが誕生日を迎えるまでには9ヶ月もあり、しかもその間にスト4の誕生日が全部挟まっているのである。学年で言うと髙地さんは早生まれなので京本さんの1つ上。

 

しかしながら、ここでもうひとつポイントなのは髙地さんと同い年期間があるのは京本さんだけなのもまた事実ということ。中間子ほくじゅりが6月にひとつ歳をとる頃には既に(約3ヶ月前に)ダディは誕生日を迎えているので永遠に追いつけない。SixTONES内で唯一髙地さんと並ぶ年齢になる時期がある京本さん、という視点で見ると年上組という括りの重みが増してくる。

「あざと可愛い」枠でバチストーリーを繰り広げつつも人間としての安定感やブレなさが桁違いのさっぱりとした性格のふたりで、時にこちらが驚くほど肝が据わっている年長組としてのきょもゆご。

年下のセンターであるジェシーさんをそのままシンプルに年下として扱う年長らしさのある2人でもある。

最後までBoom-Pow-Wowチャンネルの設定でやり通して、何なら他のチームに突撃までしていたきょもゆごを見て度胸すごいなと変な感動すら覚えた。話しかけられたらやり直しという条件は一緒なはずなのに圧倒的にきょもゆごが押していて末ズは完全に防戦一方だったのは流石の年長組だった。

 この絶妙な年の被り方が、京本さんの髙地くんに対する、時に年上扱い(あるいはおじさん扱い笑)、時に“俺らは年上組だよね”ムーブに繋がっているのかと思うとありがたい。

「こーちはおじさん」「大我もそんな変わんねえだろ」を一生やっていてほしい。

  

⑶ ほくじゅりは3日違いの双子ちゃんで唯一のタメ

頭の回転が早くて言葉で語るのが得意な者同士、トークがコロコロ転がるのが見ていて本当に心地よい。

1を言えば10を分かってくれて次は20から話が始まる感じがまさに双子。 同年の、しかもわずか3日違いで生まれてきたという事実が愛おしい。 

ラジオでのほくじゅりからは特にそれを感じる。凡人の活用語彙にはなかなかなさそうなワードや造語をポンポン出すスピード、お互いのボケを細かに拾うテンポ感、職人さんたちの意図を汲んで縦軸を作るスキル、どれを取っても相性抜群な同期の仕事人。どっしり構えたきょもゆごが年長組、切れ者かつ弟気質なほくじゅりが中間子であるというグループ内の年齢の位置付けはコンビ内部の関係性にも影響しているように思う。*3

後述の通りSixTONESは意外と学年がバラバラなグループではあるが、この唯一同学年であるほくじゅりの出すタメ感がSixTONES全体の同級生感に寄与している部分も大きいのかもしれない。

 

完全に同日という訳ではなく3日ずれているのも、似たような湿度感が根底にありつつ、一見真逆の方向性で現れているというほくじゅりの関係性を象徴しているかのよう。*4

お互いのことがすごく分かるし、全然分からない。北斗さん曰く「ちょっと好きでちょっと嫌い。」な最高の距離感。

 

 

⑷バニボトリオが4日間だけ同い年

ボスとその右腕感の強いバニボトリオは、ジェシーさんが誕生日を迎える6月11日に始まる4日間だけ同い年になる。

年下のセンターに激重感情のほくじゅりが唯一ジェシーさんとの同い年期間を毎年4日間だけ経験する(後述の通り慎太郎くんはジェシーさんと同い年になることはない)のだと考えると何となく不思議な気持ちになる。

*5

ジェシーさんがほくじゅりより年下であることについて“年下なのに”あの関係性なのか、“年下だから”あの関係性になったのかということを考えることがある。

実際ジェシーさんの決断によってアイドルグループ SixTONESが始まり守られてきた部分があるのは間違いない。その部分に着目すると“年下なのに”グループの支柱、“年下なのに”あの関係性ということになる。年下だが彼だからこそ道を整え思いを言語化して代弁する役割を買って出ている、という側面は多分確実に存在している。

一方で、ほくじゅりが単に年上の兄としてのポジションから愛おしく思っているのだろうなと感じる時もかなりある。特にMCやラジオではジェシーさんの発言に対してカラカラ笑いながらツッコミを入れている場面が頻発する。(かと思えば急にしっとり発言が出るのでこの3人は油断ならないのだが)

ほくじゅりは特に強烈にセンターへの思いを表出させる2人なのでついその側面にばかり着目しがちになる自分もいるが、“年下だから”あの関係性という側面にもう少し留意するとまた違ったものが見えてくるのではないかと思っている。

 

 

⑸末ズは常にジェシーさんが年上

“末ズ”と呼ばれるふたりではあるものの、慎太郎くんの誕生日は7月、ジェシーさんの誕生日は6月なので同い年になる期間はなく常にジェシーさんが年上

これは極めて個人的な感想だが、慎太郎くんに向けるジェシーさんの表情が1番キリッとしている気がする。もりもとーくで定期的に供給される慎太郎くん目線のジェシーさんがあまりに年上の顔をしていてびっくりすることがある。慎太郎くんから見たジェシーさんはいつもあんなにかっこいいのかと思うと感慨深い。

入所が早いことにより末っ子ながらグループの半分が後輩という立ち位置の慎太郎くんにとって、年上かつ先輩属性なのは京ジェのふたりだけである。

血縁関係のある人間関係に類似した遠慮のなさみたいな兄弟的な良さがあるのがきょもしんだとしたら、末ズは仲の良い友達ながらやっぱカッコいいなと時々しみじみと実感するみたいな良さ。

 

これからもSixTONESの陽を担いし者たちとして楽しい飲み友でいてほしいし、たまにでいいから慎太郎くんから見たジェシーさんを見せてほしい。(私が嬉しい)

 

 

⑹ゆごしんは最大4歳差

上記図からも分かるように、 SixTONESは1994年から1997年までの4年間に生まれており学年で考えると5学年構成である。「同級生感」という言葉で表現されることもあるが、4学年違うと結構な差があるとも言える。

SixTONESの年齢の開き方を他グループと比較してみると、グループ内の年齢差が大きい方とまではいかない(最大年齢差はSnowManで11学年差らしい)ものの、KinKiさんの3ヶ月差1学年違いを筆頭に嵐の3学年差など年齢差の小さなグループもかなりあるようだ。

 

結成時当時最年少の慎太郎くんは高校3年、最年長の髙地さんは大学4年。なかなかの年齢差である。*6実際、頼れる髙地さんに慎太郎くんは確定申告を手伝ってもらったことがあるらしいし、最大3歳差になるジェシーさんとの関係性においても年上として少し大人な世界を見せる振る舞いをしているという話を各媒体で見かける。

 

もっとも SixTONESの場合、年下の先輩・年上の後輩という関係性が多いという点も更なる重要なポイントとなってくる。先述の通り末っ子慎太郎くんが京ジェに継ぐ3番目の入所であること、最年長髙地さんの入所が1番遅いこと、京本ジェシー森本の先輩3人が入所してから次の樹さんの入所まで1年半空いていること、などにより年上年下先輩後輩関係が割と複雑になっているのである。

 

比較的年齢の近い同士の同年代ネタが通じる関係性でありつつも、髙地君をダディと呼んで慕うなど(髙地くんの性格ももちろんあるだろうけど)年齢差に起因している部分があると思われる関係性も見られる絶妙な年齢の開き方である。

 

 

******

 

2.関係性の多様性と魅力について

 

このように年齢差という観点に絞って考えてきただけでも、きょもゆご、ほくじゅり、バニボ、末ズ、ゆごしん…とそれぞれが極めて独特な関係性を各々築いていることが見えてくる。*7

しかも、年齢差の作用の仕方にしても「年齢が上だから先輩として扱おう」というような画一的なものではない。1対1の関係性では把握し切ることができず、グループ内での位置付けというような視点を導入しないと捉えられない(勿論それでもなお完全には理解しきれない)*8ような複雑さのあるものも多い。

加えて、それらを私たちがこれだけ熱く語れるほどに外部的にも丁寧に表現されているという点も、特筆すべき驚異的な部分である。

SixTONESという共同体の人間関係がいかにバラエティ豊かで、かつ私たちが言葉にできるほどそのあり方が大切に提示されているかということが再確認できる。

 

そもそも、アイドルに限らず人間関係というのは常に相対的でひとつとして同じものはないはずである。にも関わらず、私たちはしばしば友人関係とか恋人関係とか家族関係とか、世の中に既にある言葉に当てはめて処理してしまう。

確かに、既存のカテゴリを拝借して形容することは非常に便利で楽である。周囲に対しても、当事者間においても、社会に存するテンプレート的な情報をそのまま拝借することで苦労することなく関係性を説明することができてしまう。ただ同時にそれは、本当はもっと繊細に拾えたはずのお互いの空気感や距離感をさっくりと切り捨て、あるいは無理に切り上げてしまう側面も孕んでいる。


その点、SixTONESの6人は人間関係のあり方を極めて繊細に扱う人たちであると感じる。苦楽を共にする過程で築いてきたであろう確かで桁違いな愛情の輪郭を、言葉で、態度で、そっとなぞることができる。

雑にグループをひとまとめにして“絆”と呼ぶようなことをせずとも、そこに様々な形で愛があるのだということを私たちは自然と知ることになる。*9

私が“コンビ”“トリオ”といった文化が好きな理由もここにある。無理に何かの言葉に置き換えずともその間にしかないものを包括的に表現できる言葉が存在し、しかもそれを多くの人がある程度の共通認識のもとで当然のように使っているということはかなり特殊な環境で、しかし本当に素敵な文化だと常々感じている。(例えば単に“きょもゆご”と言うだけであの2人の関係性や空気感、エピソード等を一通り連想させる言葉になっている)“SixTONES”という名前そのものにもそういった効果を持つ側面があるように思う。


だからこそこんなにもSixTONESは少年漫画のように熱く、ドラマチックなのではないか。

愛情があること、それを型に嵌めずとも理解し表現し深めることができること。

独特な、しかし確かな愛で結ばれた多様な人間関係はSixTONESの大きな魅力であり、強力な武器でもあると考えている。

 

そうしたアイドル(特にSixTONES)の関係性のあり方は、元来人間関係はもっと自由かつ多様で良いのだということを教えてくれる側面もある。私は大切な誰かのことを単色的に捉えすぎてはいないか。雑なラベリングで拾い損ねてしまった感情がないか、定期的に振り返らせてくれる。


確かにSixTONESは6人とも個性が強くスキルフルなので、単に6人が集まっただけでもきっと面白い集団にはなっただろう。ただ、それはメンバーの寄せ集めに過ぎず、SixTONESというひとつの“チーム”とは呼べない。それぞれの関係性(6人という単位で築かれる関係性もここに包摂される)のネットの総体こそがSixTONESという概念であり、あるいはSixTONESという概念が帰属しているところなのではないか。

「最終的に愛」というジェシーさんの格言(?)があるが、確かにSixTONESのコアにあるのは、愛で構築された関係性だと思う。

 


SixTONESという共同体の内部で醸成されてきた、愛に溢れ多様性に富んだ人間関係が、9年目に突入するこれからも変わらずに*10存続してくれることを願ってやまない。

 

2023年5月1日

*1:少年時代に出会い青春を共に過ごしていく中で形成されるジャニーズアイドル同士の人間関係において、年齢差はそれなりに(大人になり1年2年の差がさほど重要でなくなってから築かれるそれと比較して)大きい要素であるように思う。

*2:当然ながら年齢差だけで人間関係が決まると思っている訳ではない。自明すぎてわざわざ具体例を挙げるまでもないような気もするが、例えばほくじゅりは3日差しかないがほくじゅりとゆごほくの関係性が明らかに違うことはその端的な証左である。2人の間にある歴史や各々の性格が全く異なる関係性に帰着させている。

*3:特にほくじゅりがグループの中で会話している時のふにゃふにゃ感猫パンチ感は兄組がいるからこそだと思っている

*4:誕生日もただの数字なのでそんなに深い意味はないと思いつつ、コントロールの効かない部分にまで運命が現れているみたいで美味しい。高燃費なオタクである。

*5:しかも12ヶ月もあるのにメンバー半分も“6”月生まれなのは流石に奇跡。

私がアイドルゲームの運営の人間だったらこんなふうにキャラクターの誕生日が近い設定で企画会議を通す勇気はなかっただろうから、こんな楽しくて怒涛の誕生日ラッシュはきっと生まれなかった。SixTONESが現実のアイドルで良かった。

*6:こうして見ると本当にそれぞれ人生の帰路に立っていたのが分かるし、あのタイミングで声をかけたジェシーさんの凄さやプレッシャーを改めて感じる。

*7:くどいようだが改めて強調しておくと、もちろん年齢差だけが人間関係を作っているのではない。共有してきた時間や社会的な立場、得意なことや性格の相性などが複雑に絡み合って構成されるものであって、それらをすべて言葉で紐解くことは恐らく不可能だ。(そもそも自分自身のことですら完全に言葉にすることは無理なので当然といえば当然である。)それでも、互いの関係性や思いを言動にして伝え合うことをやめないことにこそ意味があるのだと思っている。

*8:自分の周りの人間関係ですら把握しきることなど到底不可能であるので、当然のことながら他者間の人間関係について理解しきれる訳も無い

*9:例えばきょもゆごの愛の形とゆごほくの愛の形は誰が見ても違う形をしているが、しかしそれはどちらも愛である。ブログをお互いチェックしてバチストーリーを繰り広げるのも愛だが、一生一緒だねと言ってそっと寄り添うのも愛である。これが愛でないと言われたら愛の定義が私は分からない。むしろこれを愛の定義にしても良いくらいだと思っている。

*10:当然人間関係は流動的であるべきだし、そうあるのが健全ではあるが、根本にある確かな愛がこの先も揺らがぬものとして存在し続けてくれたら嬉しい。

『ぎゅっと』それでも夜は明けるけれど

 

それでも夜は明けるけれど

君にとってはツラいんだろうな

 

ぼんやりと眺めていた歌番組でこの歌詞が流れてきてハッとした。一瞬で目が覚めて、画面の中で歌っている彼らを食い入るように見つめたのをよく覚えている。

 

朝が来る”というのが一般的に希望のメタファーになっていることは間違いない。歌でも小説でも大抵、「夜明け」といえば絶望から抜け出すことを意味する。絶望の夜から希望の朝へ。これ以上ないくらい美しくて完璧な比喩だ。

 

ただ、個人的には、どうしてもしっくり来ていなかった。

というのも私は、ほとんど朝が来たことを喜んだことがない類の人間だったからだ。

朝が来て向かう学校という空間は、常に自分の価値を試されている場だった。昨日は上手く潜り抜けられたが今日こそは駄目かもしれない。この曲に出会ったのは特に、そんなことをずっと考えては朝が来ることをとにかく恐れていた時期だった。

 

必死に1日生き抜いて夜に逃げ込んでも、日が登れば朝に引き渡されてしまう。裏切られたような感覚で朝を迎えていた。そんなわけで「明けない夜はない」は(特に当時の)私にとっては絶望の言葉に響いた。

(もちろんそうした表現そのものやそれを伴う曲を批判・否定する意図は全くないことは理解願いたい。夜明け曲で大好きな曲もたくさんある。)

誰かが曲の中で言葉を尽くして朝を祝うたびに勝手に自分だけ取り残されたみたいな気持ちになって、誰のせいでもなくほんの少し寂しかった。

 

だから、『それが君にとってはツラいんだろうな』と夜が明けることを喜ばずにいてくれるどころか、むしろ朝が来るツラさに寄り添ってくれたあの歌詞と出会って、泣きそうなくらい嬉しかった。私の憂鬱で絶望に満ちた朝のことを、画面の向こう側の彼らは知ってくれているような気がした。

いつでもちゃんと見てるから

いつもだったら素直に受け取れなかったであろう、ステージ上の会ったことすらないアイドルから言われた「ちゃんと見ている」が、あの時ばかりはすっと身体に馴染むのを感じた。

 

 

『ぎゅっと』の詞の秀逸なところはこのパンチラインの後で更に

空にはゆっくり雲が流れる

と畳み掛けるところである。

「辛いだろうけど頑張れ」とか「辛いだろうから泣いてもいいよ」とか、そういう方向性に直接持っていくこともできただろうに、ここで風景描写を挟み込む。

星でも太陽でも月でもなく、夜の空にも朝の空にも浮かんでいて、太陽よりずっと私たちの近くに浮かんでいる雲。朝も夜も関係なく、私たちの憂いも絶望も関係なく、ただ風の吹くままに雲は流れていく。

 

辛さに追われて視野が狭まっている人に押し付けがましくなく俯瞰の視点を与え、同時に結果を急いでしまいがちな人に無理なくゆったりとした時間の流れを想像させることに成功している。あまりに巧みである。

 

(この優しく美しくかつ過不足なく言葉を使う人は誰だろうと作詞家を検索して、風磨くんが携わっていたと知ったときの驚きは今でも新鮮に思い出せる。作詞家菊池風磨、恐るべし…)

 

 

夜明けの絶望にぎゅっと耐えなければならない朝ばかりの日々ではあるけれど、この曲のおかげで大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせて歩いてくることができた。

あの日から今まで、そしてきっとこれからも、私を救い続けてくれているこの曲に心から感謝している。

今もぎゅっと抱いて

明日もぎゅっと抱いて
いつでもちゃんと見てるから 

大丈夫

これからもぎゅっとがずっと愛され続けること、必要な人のもとに1人でも多く届くことを願って止まない。

 

 

*****

セクゾも大好きではあるものの、(アルバムやシングル、ブログ、SNS、ROT、ジャにの、ニノさんを見ているくらい)あくまでスト担の書くことなので不正確な部分があるかもしれないことをお許しください。風磨くんのクレバーさを番組で見るたびに好き…となっています。


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